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太極拳

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太極拳について

(公財)神戸いきいき勤労財団が発行している「ライフプラン情報【58】2010年 7月 (健康について 太極拳について)」より転載しています。

(公財)神戸いきいき勤労財団 「ライフプラン情報【58】2010年 7月 健康について太極拳について」

制定拳と伝統拳

1949年の新中国設立後、毛沢東主席が「新民主主義的国民体育」を提唱し、翌1950年には中華全国体育総会による武術工作会議が開かれ、新中国における新しい武術活動が開始されました。これ以降伝統武術は、当時同じ社会主義体制であった隣国ソ連の科学的な体育観にも影響を受け、「武術」から「スポーツ」へと転換されることになりました。なお、ここでいう「スポーツ」とは、「競技や娯楽のための運動」を指しています。
毛沢東の「体育活動を発展させ、人民の体位を向上させる」「古為今用(昔のものを現代に役立てる)」「押陳出新(古くささを退け、新しきを出す)」などのスローガンのもと、国家体育運動委員会(現国家体育総局)は次々に新しい基軸を打ち出しました。伝統的な中国武術(伝統拳)も「技術偏差が目立ち、多くの弊害が生じている」ことを理由(これは私見ですが、当時の状況では伝統拳に対する偏見と政治的意図があったのでないかと思われます。)に、健康運動やスポーツとして統一化し、伝統武術を「現代武術」と変容させることが図られたのです。
太極拳関連では、当時の国家体育委員会運動局武術科が「楊氏太極拳88式」をもとに、それをスポーツ化した太極拳運動の套路を造り、1954 年には雑誌「新体育」に「簡化太極拳24式」の初稿を発表し、翌々年の568月には正式にそれを「国家制定拳」として発表しました。簡化24式太極拳以降、88式太極拳・32式太極剣(’57年)、48式太極拳(’79年)、長拳関連でも甲組の男女長拳・刀術・剣術・槍術・棍術(’62年)、乙組の長拳、刀術、剣術、槍術、棍術(’63年)等、続々と制定されました。
また同委員会は、この現代武術を「競技スポーツ」の正式種目として公認し、その競技種目には、拳術、器械、対練、集団演武、対抗性競技(散打)がありましたが、その中の「散打競技」はスポーツ競技として「危険性が高い」という理由で1982年までは禁止されていました。このような経緯で、太極拳・長拳・南拳をはじめとして各種の伝統武術は、套路はもとより、武器などの技法も全て現代化し基本功も体育運動化される方向づけがされ、「現代武術」における「制定拳」は、体育学院等の教育機関を中心に教学・普及されていき、次第に中国武術はスポーツ、表演競技、健康運動としての立場を発展させて行くようになりました。
中国武術が伝統武術から「現代武術」を派生させ、その新たな歴史を踏み出そうとした時に、「文化大革命」(1966年〜76年)という悲劇が襲います。
文化大革命では「伝統武術」は完全に否定され、非難攻撃の対象となったため、数知れない武術家が迫害を受け、そのために命を落とした方もいます。そして、失伝した拳種や流派も計り知れません。しかし、文革の収束後には再びその文化が見直され、今度は一転して徹底的に破壊された武術文化の復興を図る政策がとられるようになりました。例えば中国武術協会は1979年から、伝統武術の発掘調査を行い、19838486年には全国武術遺産発掘整理作業のための会議や報告会を開き「系統的」「理論的」「特性」「特点」に確立されたものを中国武術の「拳種」として129種の認定を行っています。
1986年3月には、「国家体委武術研究院」が設立され、伝統武術の発掘や国際化が本格的に行なわれるようになりました。そして、その結果、1990年には中国が初めて主催した「第11回北京アジア競技大会(アジア・オリンピック)」で武術 ( Wushu :ウーシュウ)が公式競技種目として採用されるまでになったのです。
この北京アジア大会に合わせて競技種目として制定された国際規定套路が、現在では「規定拳」という名称で呼ばれており、太極拳では「総合太極拳42式」、「陳式規定太極拳56式」、「楊式規定太極拳39式」、「呉式規定太極拳45式」、「孫式規定太極拳73式」、「総合太極剣42式」、「推手規定套路」等、長拳では「国際武術競技規定套路:第三・第二(A)・第一(B)套路」等があり、南拳にも国際規定套路があります。
また、近年では形意拳、八卦掌、八極拳といった伝統拳種目の中からも、規定套路が数多く生まれてきています。

制定拳 伝統拳
 動作の重複をさけ、左右対称の動作を組み入れてある。  動作には重複が多い。拳、鈎手は右手を使用。そのほか右手の使用法が大部分である。
  分解動作で足の虚実の変化を重視してあるので、姿勢がくずれやすい反面、歩幅を調節して行うことができるので無理がなく、慣れると軽快な感じがする。  方向転換の調整に足腰の鍛錬の重要さをもたせている。
 姿勢の高低(架式)に大架・中架・小架等がある。
 動作によっては呼吸を調整する場合や箇所がある。  動作と呼吸が合わせやすく、気を丹田に沈めやすい。
 テキストやビデオ等の教材では動作説明が明瞭な場合が多く、独習しやすい面がある。  各流派の風格を重視するので、流派の伝承者や老師について習わないと、習得しにくい場合がある。

伝統太極拳各流派について

陳式太極拳

特徴:大架式(一般に普及しているもの。伝承によっては、小架式もあり)
歩型・歩法:横档歩(円档 開胯屈膝)、擦歩、丁虚歩
手型・手法:瓦龍掌、折畳
剛柔相済、快慢兼備、気勢強烈であり、動作は跳躍、震脚、発勁が多く、螺旋形(らせんけい)のねじりを伴った纏絲勁(てんしけい)が特徴。
陳氏の太極拳は陳氏十四世陳長興陳有本陳有恒)の時代に大きくふたつの系統に別れ、以後、陳長興が伝えたものを大架式(動きのなかで描く円が大きい)、陳有本が伝え陳清萍が改良したものを小架式(大架に比べ、描く円が小さい。)と呼ばれている。
陳氏の套路にはその他にも陳氏十八世陳照奎が制定した新架式(新架式の套路と練法を創始したのは陳有本であるといわれる)がある。また、新架式に対して大架式のことを老架式と呼称する例も一般的である。陳家溝には炮捶と呼ばれる套路も伝わり、陳式二路と呼ばれることがある。
その他の陳氏の拳架(スタイル)としては陳有本の甥で、陳家溝の隣村の趙堡鎮に婿入りした陳清萍の拳架である趙堡架式と、陳清萍の弟子の李景炎によって考案された忽雷架式がある。大架式に対し小架式、新架式、趙堡架式、忽雷架式は、形的には非常に似ていて同一視され易い傾向にあるが、動作的にはどれも特徴ある表演(演武)スタイルをとる拳架である。
開祖または創始者:
陳王庭(1600年〜1680年)
明の官僚(武挙を通った人)であり、明の滅亡の少し前に出身地の河南省温県陳家溝に帰って(王庭は陳家溝の陳家第9世)、郷里の子弟に武術を教え始める。
歴史および伝承:陳王庭によって改良・創出された拳法(徒手武術)・槍法・剣法・刀法その他の武術体系は、陳家溝の人々によって約400年間にわたって練習され、現代にまで伝わる。陳家溝からは、現在にいたるまで陳小旺、陳正雷、王西安、朱天才の「四傑、四天王」と呼ばれる老師をはじめ多くの伝人達を輩出し、今もなお住民の大部分が太極拳を練習しつづけている。
代表的伝人:陳長興(1771年〜1853年 陳家第14世)いつも姿勢が良いので「牌位大王(つまり位牌先生)」というあだながあるように、常に立身中正を維持する拳風が伝えられている。楊露禅などの優れた弟子を養成した。
陳発科(発科は字、名;福生 1888年〜1957年 陳家第17世)
1928年に北京に出て、陳式太極拳を初めて大都会の人々に教授する。弟子には、馮志強、田秀臣、洪均生、雷蒙尼等が多数おり、実子の陳照奎(陳家第18世)から陳小旺、陳正雷、王西安、朱天才へと伝承が受け継がれている。

楊式太極拳

特徴:大架式(一般に普及しているもの。伝承によっては中架式、小架式もあり)
動作・姿勢が大きく伸びやかで連綿不断と称されるように途切れることなく柔らかく行われる。動作が優美なことも特徴であり、その風格からかっては「綿拳」「化拳」とも称されたと言われている。発勁法は緩やかな暗勁(綿中蔵針)。なお、楊式にも動作に緩急を伴う小架式及び二路砲捶が存在する。
歩法:碾歩(分虚実)、提歩
開祖または創始者:楊福魁(字:禄禅、号:露禅1799年〜1872年)
河北省永年県城南関の農家の出身。若い頃に永年市で陳家溝の陳徳湖が経営する薬材店で下僕として働く。陳徳湖の帰郷に従い河南省の陳家溝に赴き、陳徳湖の家で労働しながら、陳長興に師事して太極拳を学ぶ。(楊露禅が陳家溝にいた期間は諸説あるが、10年足らずという説が有力である)、太極拳の功夫の大成後、(おそらく1830年代前半に)永年に帰郷し、家庭を築く。
歴史および伝承:楊露禅が永年市で太極拳の教授を始めた後、当地の清朝貴族(高級官僚)の武家の人々に太極拳を教え、武家の信頼を得る。その後、武家の当主が北京に転勤になると、楊露禅もよばれ、1852年に北京に出る。楊露禅は実戦高手として楊無敵と讃えられ、その評判故に請われて清朝貴族を始め、多くの者に教授した。
楊家の太極拳は、その子供たち、次男の楊班侯(1837年生まれ〜1892年没、班侯は字)、楊健侯(1839年〜1917年、健侯は字、名は鑑)などを中心に伝承される。
代表的伝人:楊澄甫(澄甫は字 名は兆清 1883年〜1936年)
太極拳普及の功労者で、楊健侯の第3子。父や兄弟子の許禹生(1879年生〜1945年)から太極拳を学ぶ。1920年代半ば以降、武漢、南京、上海に行って広く太極拳を教授。この楊澄甫の大架式が、現代に普及している楊式太極拳である。

呉式太極拳

特徴:小架式 動作は緊密でまとまっており大きく伸びやか、前傾動作(斜中有正、斜型中正)が特徴。呉式は楊露禅の大架式と楊班候の小架式の両方の特徴をあわせもち“柔”を主とし、姿勢や気の運用にも独特のものがあり、楊式初期の風格を残していると言われる。伝承系統によって歩距や架式の高さに比較的違いが大きい。
歩型・歩法:川字歩、馬歩
開祖または創始者:呉鑑泉(1870年〜1942年)
呉式太極拳の実質上の創始者。楊露禅および楊班侯の弟子であった満州族の全佑(1834年〜1902年、清朝貴族)の養子。
1928年以降に南京、上海で太極拳を教授。
歴史:呉式太極拳は、楊露禅の子楊班侯に師事した呉全佑と、その子の呉鑑泉によって確立された。呉鑑泉が上海精武体育会で教授したことにより、中国国内(特に南部沿岸諸都市)はもとより、香港を中心とした華僑の間に広く普及した。
また、呉全佑→王茂齋の系統は呉式北派とも呼ばれる。(王北南呉)この系統には楊禹廷→王培生、李秉慈など多くの伝人を有する。

武式太極拳

特徴:小架式 技法は小巧緊湊で、出す手が足の先を越さないほどの小架式であり、内気潜転という独特の呼吸法をおこなう。本来は跳躍動作があったが、第4代の頃より老人向けに穏やかな動作に統一されている。
開祖または創始者:武禹襄(禹襄は字、名;河清1812年〜1880年)
楊露禅の後援者であった武家(清朝貴族)の兄弟(澄清・河清・汝清)の次男で、楊露禅と交流を深める。武禹襄は太極拳の研究に熱心で、王宗岳の「太極拳論」をはじめ「十三勢行功歌」等、太極拳文献の発掘・整理に努める。1852年頃に陳家溝に行き、隣村の趙堡鎮の陳清萍から小架式を習い、統合して武式太極拳の架式を創出する。太極拳の命名は武禹襄によりなされたという学説もある。
歴史および伝承:李経綸(字;亦畬、1832年〜1892年、武禹襄の甥)、さらに郝和(字;為眞、1849年〜1920年 武禹襄の娘の子)、などによって継承される。
北京に出向いて、後に孫禄堂に太極拳を教授したことで著名な郝為真の一族が「太極拳の故郷」永年の地以外で武式太極拳を広めたため「郝(かく)式」と呼ばれることもある。

孫式太極拳

特徴:小架式 形意、八卦、太極三派合一の総合太極拳別称として開合活歩太極拳とも呼ばれる。開合・活歩進退転換・転折機敏
歩型・歩法:活歩(跟歩、撤歩)進退相随 邁歩必跟、退歩必撤
手法・手法:開合手、馬形拳
開祖または創始者:孫禄堂(字;禄堂、名;福全、号;涵斎1891年〜1932年)
郭雲深より形意拳、程廷華より八卦掌を学んだ後、1912年に郝為眞から武式太極拳を学び、形意拳(の歩法)、八卦掌(の身法)、太極拳(の手法)を総合して、新しい架式を作る。仏教徒であり、また武勇伝の持ち主。
歴史および伝承:孫禄堂は1928年には、内家拳で最高の達人であるとの評価を得て、 中国武術の全国的統一組織であった南京中央国術館に、武当門(内家拳)門長として招聘されるが、間もなくそれを辞して江蘇省国術館に退き、副館長兼教務主任に就任した。後に上海でも教学を行う。弟子には孫剣雲(長女)、孫存周(二男)、胡鳳山などが著名である。